ブログ 七転び八起き

司法書士試験合格までの9年間を綴ったブログです。

八回目で念願の司法書士試験合格

あるがままを受け入れる森田療法とは【前編】

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先日、「禅」についての記事を書いたのですが、書きながら思いだしたことがありました。

 

それは、あるがままを受け入れる、森田療法です。

 

(「禅」って、「森田療法」ともリンクしている、と思うのは私の勝手な推測ですけどね。)

 

 今日は、森田療法について書いてみたいと思います。

 

森田療法 (講談社現代新書) 

 

 

 

 

 

「あるがまま」を受け入れる

「夏の山と架橋」のフリー写真素材

 

森田療法とは、約100年前に日本で森田正馬によって創始されたものと考えられる、神経質症的傾向のある人や、一般の人向けについて書かれた精神療法です。

 

「こうすべき」が強くて生きずらい人や、不安障害・神経質・強迫観念の強い人のために提唱されています。

  

岩井寛『森田療法』

1 森田療法の基礎理論

  1「生の欲望」と人間

  2人間心理の発達過程

  3生の欲望の二面性

 

2 神経質(症)のメカニズム

  1神経質(症)者の性格

  2「ヒポコンドリー性基調」とはなにか

  3「精神相互作用」について

  4「とらわれ」の心理

  5「はからい」の行動

 

3 神経質(症)の諸症状

  1神経質(症)とは何か

  2神経質(症)の類型

    (1)強迫観念(強迫神経症)

    (2)不安神経症(発作性神経症)

    (3)普通神経質

 

4 神経質(症)の治し方

  1入院療法と外来療法

  2「精神交互作用」を打破する

  3「とらわれ」と「はからい」からの脱却

  4自己実現と自己陶冶

 

5 日常に生かす森田療法

  1成就した「あるがまま」体験

  2私にとっての森田療法

  3「あるがまま」の本質

 

 

 

 

人間がもつ「生の欲望」

 

人間は、生まれながらにして「生の欲望」を備えている。

生命を維持し、種族を維持しながら、自分らしく生きたいという欲望だ。

 

けれど、欲望を持つことは、その望みが達成できなかったらどうしよう、という恐れも同時に抱くことになる。

 

森田は、神経質者は「生の欲望」が強いと考えるが、これは森田のいう完全欲へのとらわれと通ずるものであり、神経質者はより理想主義的に自己目的を求めようとする。その反面、神経質者は生への執着がつよくて、病気や死に対する強迫的恐れをもち、ヒポコンドリー状態(自分の身体に必要以上に気を遣う状態)になる可能性もある。

 

出典元 岩井寛『森田療法』

 

 

 

例えば、わたしのはなしで恐縮ですが、いつも、怖いと思うことがあります。

 

高速道路を車で走っているときに、隣を走るトラックと当たりそうでヒヤヒヤすることってありませんか?

 

 

なんか、あれ、息が止まりそうになります。

実際、車には当たらないので、その心配は無駄におわるんですけど。

 

 

  

心配は無駄だという記事を以前書きました。

心配性の治し方② 心配学「本当の確率」となぜずれる?

 

その記事では、心配する気持ちは認めてあげて、心配事が本当にそうなってしまう確率はどのくらいか計算してみよう、という内容でした。

 

今回は、なぜ心配になったり不安になったりするのかをつきとめてみたいと思います。

 

 

 

森田療法では、心配性の原因は「生への欲望」が強いから、と考えます。

 

人間には、大きく3つの欲望があると考えられます。

 

①「生の欲望」・・・健康でありたい。よい住居を得たい、美味しいものを食べたい。

②「快楽に伴う欲望」・・・性的な欲望。(芸術活動や創造性につながる)

③人間ならではの欲望・・・非常にやっかいな「向上心」と呼ばれるもの。

 

 

第一章では、著者の岩井寛さんの体験談とともに、不安や葛藤を「あるがまま」にしながら「目的本位」に従うことの大切さがわかりやすく描かれています。

 

 

 

とても印象深い体験談でしたので、是非読んでみて欲しいです。

 

 

人間の欲望をきちんと把握し、それをよりよく生かすことが豊かに生きることの前提になるのである。

 

出典元 出典元 岩井寛『森田療法』

 

 

 

 

 

 神経質(症)者の性格

 

神経質(症)者の特徴とは何か?

 

 神経質者の性格の特徴を考えてみると、一言でいってしまえば、”かくあるべし”という考えが非常に強い性格である。換言すれば、これはひとつの教条主義である。人間性を無視し、状況を無視して、自分勝手に”かくあるべし”という結果を求めるならば、現実にはそれが実現し得ないばかりか、かかわりをもつ他者に困惑を与え、それによって自分も傷ついたり、苦しんだりすることになる。

 

出典元 岩井寛『森田療法』

 

 

うん。

その通りです。

柔軟性のなさが、自分でも嫌なんですけど・・・

かかわりをもつ他者にも困惑を与えてます・・・

 

また、同じようなかくあるべし星人と出会ってしまったら最低ですね。

接するだけで気分が悪くなります。

最悪の化学反応が起こります。

 

 

かくあるべし星人は、さらに依存性が強い。

関連記事:人の目が気になるのはナゼ?①

 

 まぁ、自分のことなんですけどね。

 では、どのような環境で神経症は発症するんでしょうか?

 

家族それ自身がすでになんらかの形で教条主義的な傾向をもっており、真面目で几帳面で融通がきかないというニュアンスが強いのである。

 

おもしろいことに、不安神経症は一定していないのだが、対人恐怖症の場合は、いずれも長男と呼ばれた方が神経症を発症していた。

 

 

う~ん。

そうですね。

親は教条主義的な傾向もあるし、わたしは長子ですw

そして気が合うのは、決まって末っ子です。

  

それから、さきほどの高速道路の件、理由が書いてありました。

 

ヒポコンドリー性基調は、ただ単に身体面を指すだけではない。例えば、縫い針を捨てたときなど、人に刺さったり、自分に刺さったりすることなくそれがきちんと処理できたかどうか、また、手を洗った後に、きれいに落ちているかどうかが非常に気にかかる。そのような強迫観念に繋がる部分において人一倍心配が強くなってくる。

 

身体に限らず、自分にとって不利である様々な点に気がまわり、人一倍それが悪いことだと考えられ、思い悩む状態をヒポコンドリー性基調は含んでいるのであり、神経質者は生まれつきこのような傾向を大きく担った性格の持ち主だといえる。

 

出典元 岩井寛『森田療法』

 

 おお、やっぱり、生まれつきの性質だって!

自分はHSPなのかも。

 

(HSPについてはこちら。関連記事:心配性の治し方① 心配学「本当の確率」となぜずれる?

 

 

わたしは、少しでも 自分が他人と違うと感じることに、不安になります。

それがとても嫌です。

 

でも、この心配性は生まれつきなら仕方ないと思いました。

 

「自分にとって不利である様々な点に気がまわり、人一倍それが悪いことだと考えられ思い悩む状態」であるので、わたしはヒポコンドリー性基調も持ち合わせていると考えられるのかな?

 

  

あ、でも、著者の意見として、次のようなものがありました。

 

不安神経症者は家族の誰かに極端に甘やかされている傾向が認められており、対人恐怖症者は、家族の誰かに強い葛藤を抱いていて甘えることができないという傾向を示す。

よって、生来の気質に加えて後天的な要因が合わさり、神経質が発症する。

 

 

簡単に言えば、こうです。

 生まれつきの気質 + 家庭環境 = 神経質者

 

 

 

 

人間は何かにとらわれながら生きている

 

けど、何にもとらわれずに生きている人は少ないです。

皆、何かにとらわれながら生きている。

 

それでは、神経症者のとらわれと、日常者のとらわれとどこが違うのでしょうか?

 

 日常者の場合には、とらわれながらもなおかつ自由に思考し、行動し、生活することができ、「とらわれ」の方向に向かう「生の欲望」を認めつつ、なおかつ「とらわれ」から脱しようとすることもできるのであるが、神経症者の場合には、ほとんど、あるいはまったく、この「とらわれ」から脱することができなくなってしまうのである。

 

出典元 岩井寛『森田療法』

 

 

日常生活に支障をきたすほど、歪んだ観念に「とらわれ」続ける状態を「強迫観念」にとらわれているというそうです。

 

わたしは、色々な思考にとらわれていますが、自由に思考することもできるし、行動することもできます。

  

日常生活に支障をきたす人は、きっと辛いでしょうね・・・

 

 

 

 

神経質(症)者は、オールオアノッシング

 

神経質(症)者が物事を決定する場合には、はっきりすべてか無か。

黒か白か。という態度をとりやすいです。

 

 

中間が許せない。

 

わたしの辞書にグレーはない。

 

 それはなぜか?

 

これは神経質(症)者が、相反する感情を内在させ、相反する物事を包含しながら生きているという事実を受け入れるだけの、心の余裕と豊かさをもちえないがためである。

 したがって、神経質(症)の治療は、西欧における精神療法とは異なり症状を取り除くことではなくて、それを人間性の一部、あるいは現象そのものとして受容できるような人格を、日常行動を通じて獲得せしめる点にあるのである。

 

出典元 岩井寛『森田療法』

 

 

 

 

ほら、この辺が禅の考え方と似てないかな?

(関連記事:禅とは?世界でも注目されるその効果とは )

 

リーマン・ショックで行き詰まった西洋の実践主義(プラグマティズム)は、二元論の考え方の下に成り立っています。仏教的な考え方は、その壁を回避するものです。善悪や有益無益の判断や区別がない状態で、物事をあるがままに見られるかどうかを問題にするのが仏教です。

 

出典元 川上全龍『世界中のトップエリートが集う禅の教室』

 

 

 

神経質?あんた、おかしいよ。治療せよ!っていう西洋式。二元論。

神経質?みんなそうよ。気にするな。っていう東洋式。一元論。

 

 

心理学も、西洋と東洋ではこんなに差があるのかぁ・・・

いろいろ考えると面白い。

 

 

話が脱線してしまいましたが、神経質の治療とは、神経質であることを取り除くのではなく、人間みんな同じなので、このモヤモヤを受け入れるんだ、ということを日常生活で訓練すること、みたいですね。

 

 

自分の神経質的な部分を解決したい、解決したい、と思ってずっとモヤモヤしています。

でも、結局は、解決するものではない。気にしない。

 

 

というスタンスを得ることが解決につながるという不思議な答えなのでした。

また、引き続きこのテーマで記事を書きたいと思います。 

1人で勝手に盛り上がってすみません・・・

 

では、また~!!!

 

 

つづきを読む: あるがままを受け入れる森田療法とは【後編】